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われわれはどこに向かおうとしているのか? [この国を憂いてみる(脆弱性)]

大震災、原発クライシス。
そんな中、仕事帰りに広島平和祈念公園に立ち寄った。


「過ちは繰り返しませんから。」
慰霊碑の言葉は戦争のことを言っているのだが、震災の今、少し別のことも思ってみる。




愛する人を亡くし、明かりも食料も、娑婆への通信手段さえも閉ざされ胆力で生きる人。
その傍らで、こんなハズではない!責任者は責任を取れ!・・・怒号が飛び交う。


われわれはとてつもない力を得たと思う。
アインシュタイン博士が発見した、自然の力にテコを入れる方法。
そのとてつもなく大きな力、我々人類は未だ制御不能である。



自然の前に、我々は無力である。
何度も何度も、人類は思い知らされてきた。
人間と人間のいがみ合いも、同様である。



人が痛い目にあうのは、欲が過ぎるから。
とてつもなく長い年月を掛けて出来上がった化石燃料を好きなだけ使い、かと思えば巨大な自然の力で押しつぶされ。贅沢なんだよ。電車が来ないからお家に帰れないだなんて。



日本社会だけ取ってみても、さまざまな問題を抱えている。
はっきり言ってどこに行っても逃げ場がない。
みんなとおんなじように生をやり過ごすだけの人間だらけだ。


こんな日本、こんな社会、こんな世界。
過ちを繰り返さないと誓った先祖に対してなんと申し開きが出来る?



東電の安全管理はなんだったのか。
経産省は何を見ていたのか?それは後ほど明らかになるだろう。
しかし、問題はそんなちっぽけなことではない。



そろそろ止めにしないか?
我々人類は強欲が過ぎる。



今の我々は、「地球」という名のツボに手を突っ込み「神」を掴んだつもりになったサルと等価である。
そんなことは、もう止めにしよう。



今一度、全人類が、人間のスケールと自然のスケールを再認識すべきだ。
次の世代に、これ以上無理難題を押し付けてばかりいては、滅びの日が早まるだけだ。



生きる目的は欲を満たすためか?我々はどこへ行くべきなのか?
それでも、本当にそれを知る必要もないと言うのなら、我々はサルと等価である。



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平等って [この国を憂いてみる(脆弱性)]

最近この国を覆っている閉塞感の根本的な原因っていくつかあると思う。
その中の一つに、リベラル的な発想というモノを、この国の人々がそれぞれ履き違えた考え方で暮らしている事を挙げてみる。



昔からある言葉、
「出る杭は打たれる」からスタンドプレーはしたくない
「長いものには巻かれろ」っていうから創造的な行動は控える
最近では、
「ナンバーワンにならなくてもいい」ってみんな言うからなろうとする努力をしないしそういう教育を受けてない
「オンリーワンになればいい」っていうけどサブカルチャー的なオンリーワンは認知度低いから不満

そして、人と違ったことをすれば奇異の目で見られ、変わり者というレッテルを貼られる。
少しでも社会的に間違った行動をすれば周りはドヤ顔して、その者に一斉砲火を浴びせる。
その結果、人によっては仕事や生活がやりにくくなる。

特に自我確立に至っていない子供たちの社会にこのような傾向が強く発現するものだが、現代はアダルトチルドレンならぬ、レベルの低い成人が増えている為なのか、大人的な行動をとることさえ奇異の目で見られているような気がしてならない。日本というコミュニティが幼稚であるから、私はそのように感じてしまうのだろうか?



世界と比較すれば、この国における社会的格差は群を抜いて安定していると思われる。
これも戦前戦後における先人方々の邁進された努力と犠牲の上に成り立っていることを決して忘れてはならないが、言いたいのはそれではない。今を生きる我々は与えられた自由と平等について、まだ良くなりたいとその二つを持つことが当然であるかのように不満を各々好きなように唱える。



ここに、雇用の安定が社会全体の生活レベルの向上に繋がり、正のスパイラルとなって社会全体が発展するという発想があるが、それ自体は間違ってはいないし、私はそれを支持さえもしている。理想的だ。

しかし、「十把一絡げ」にはされたくはない一面が実のところ、ある。誰だって良い意味での特別視をされたいものだ。
「上見て暮らすな_下見て暮らせ」と、幸福感は絶対評価をして憧れだけは持ち、不幸感は相対評価で判断をして気を紛らわす。


平等の欠点は、誰でも自分より優れた者とのみ、平等になりたいと願うことにある。
(仏作家: Henri Beck) twwitter/ # meigenbot より
これは普遍的な人類の持つ煩悩であり、これを上手く操作し、社会全体の幸福感を増すことが、コミュニティの幹部に求められる。



平等。リベラル的な発想。私はとても気に入っている。大好きである。そこから抜け出したくはない。まるで寒い日の朝の布団の中のようだ。
しかし、そこからメシを食う(経済活動を行う)には立ち上がらなければならない。それが月曜日(休み明け)の朝だろうが、睡眠時間が2時間しかなかったとしても、だ。毎日嬉々としてその瞬間を迎えられたら良いのだが、そうもいかないだろう。

平等という名の元に自由を制限するこの国の風潮は、如何とも評価し難い必要悪の様な存在である。
平等を保ちたいというこの国の閉塞感を持続させている負のマインドを、打開せねばなるまい。



国よマスメディアよ。国民に対しこれを改めるべく行動願いたい。



それでも、私、個人的には、改悪のリスクを被りたくはないのだがね。







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就活って [この国を憂いてみる(脆弱性)]

# この文章は私の独り言です。批判は甘んじてお受けいたしますが(つっこみしたい方はたくさんいらっしゃるでしょうが)、それに対する回答は致しませんので、ご容赦ください。

就職活動している学生と募集している企業の”想い”って恋愛に似てると思う。

ここ出言う恋愛の定義とは、”互いの利益を享受するために付き合う”ことを意味して、
就職活動とは、”付き合う相手を互いに探しあう行動”と定義する。

さしずめ就職説明会とは、企業という異性が、その性格の一部分を出会いの場でアピールし、
もう一方の異性がそのアピールを見聞きし、誰と付き合うのが良いか?、と探り合う、
一見して品評会のようなモノであると考える。


実際に企業がほしい人材とはなにか?

答えは簡単である。
”自分に見合う人が欲しい”

就職したい先はどこが良い?

たとえば男性なら、”顔が良くて気立てが良くてお金を持ってて・・・”など
女性なら、”かっこよくて頼りがいがあってお金を持ってて・・・”など
のようなことが理想になるでしょう。

みんないい暮らしがしたいもの。
だから、高根の花とか、この辺で良しとするか、という感覚が就職活動にも生じてくる。
そういう考え方が出来上がるのも、市場心理として、当然の流れだと思います。


じゃぁ、企業が欲しがる理想の異性が育っているのか?ということになると、疑問ですね。
会社、いや、社会・この国というコミュニティーが欲しがる人材は、たくさん育っているのでしょうか?

着目するのは、憲法にも謳ってある教育と家庭。

教育現場の指導者は、民主主義の元で経済活動を行っている社会人、企業人と比べて、
企業間の一般常識の感覚とは必ずしも一致はしていないし、むしろ今般の指導者育成方法が、現在の社会の波に追いつけないという現状から、乖離傾向にあると思います。
企業とセンセイと国が同じベクトルに乗っかることが出来ない土壌が問題だと考えています。

家庭においては、どちらかといえば父親的な、即ち社会の窓を開いてくれる人が重要ですが、
親子のコミュニケーションは昔と比べて希薄傾向にあります。

学生としては、理想の異性を探そうにも、
指導的役割をなす人が”頼りにならない””つかまらない”あるいは、”周りに居ない”状態では厳しいでしょうし、
また、どんな自分であるべきかが分からないまま、生まれてきて18~22年過ごし、急に社会に頬り出されて右も左もわからない状態なら、この世知辛い中の大荒波に乗れず、溺れてうつ症状になるのも当然です。


じゃあ、どうしたらよいか?

・指導者は、世間の波に飛び込んで現場を知り、大荒波を、経済活動というものを体感してください。そこで学生に必要と感じたことを伝えてください。
・家庭では、学生が親や親戚に”どのように生きていったらいいか”、”社会のなかでどのように振舞うべきか”などを教えてもらってください。
・国は、社会を知った人間を教育現場へ送り込んでください。
・学生は、先人たちの経験・知恵を生かし、国際社会の中で辱めを受けない社会人になってください。



幼馴染と一緒になって一生を終えるのもアリですけど、
このように皆が一枚岩になれば、企業にとっても学生にとっても、理想の相手が見つかるはずです。



タグ:就活 教育 個性
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